和泉真澄(同志社大学)

第二次世界大戦期に起こった22,000名以上の日系カナダ人強制移動・収容は、カナダ史における人種差別的な政府の政策のなかでも、最も過酷なものの一つとされています。

戦時中に日系人が体験した一連の出来事を、1)太平洋岸からの強制移動、2)カナダ内陸部での強制収容

3)西海岸に残した財産の没収、4)ロッキーの東への分散政策と日系人の国外追放と、この節では時系列的に紹介します。

戦時中の体験に入る前に、まずは「日系カナダ人」とは誰か?」から説明しましょう。

序.「日系カナダ人」とは誰か?

一般的に「日系人」とは、日本国外に永住している日本人移民とその子孫のことを指します。

第二次世界大戦以前には多くの日本人が環太平洋地域や東アジアにおける日本の海外領土に移住していましたが、日本の敗戦後、太平洋の西側半分に住んでいたほとんどの日本人は現在の日本列島に引き揚げました。

戦後に海外移住した人々は、ブラジルなどでは「日系人コミュニティ」に合流しましたが、その他の国々では多くの人々は国籍に関わらず「日本人」や「戦後移住者」などと認識されているので、必ずしも日本人の海外永住者が「日系人」と考えられているわけではありません。

このような事情から厳格には定義できないのですが、現在の世界の主な「日系人」の居住地には、ハワイを含むアメリカ合衆国、カナダの他、ブラジル、ペルー、メキシコなどの南米諸国などが含まれ、それぞれの国に住んでいる日本人を祖先に持つ人々が「日系アメリカ人」「日系カナダ人」「日系ブラジル人」「日系ペルー人」などと呼ばれています。

一般に、最初に日本から移民した人びとのことを一世、移民先で生まれた一世の子どものことを二世、その一世の孫のことを三世と呼びますが、移民先で生まれながらも、学齢期を日本で過ごし、のちに北米へ戻った帰米二世、帰加二世と呼ばれる人びともおり、世代のみで単純に移民経験をカテゴリー化できない側面もあります。

第二次世界大戦期における「日系カナダ人」を定義するためには、戦前のカナダにおける日本人移民の市民権に関する政策を理解する必要があります。カナダでは日本からの移民にも帰化権がありましたので、カナダに帰化した日本人は「帰化したカナダ人」となり、帰化しなかった人は日本国籍の長期滞在者としてカナダで暮らしました。

一方、親の国籍によって子の国籍が決まる日本とは異なり、出生地主義を国籍付与の原則とするカナダに生まれた二世は生まれながらのカナダ人でした。

ちなみに、アメリカ合衆国においては、1952年まで日本からの移民(=一世)には帰化権が与えられていなかったので、日系一世は日本国籍を保有していました。それに対し、アメリカ生まれの世代(=二世、三世など)はアメリカ国籍を保有する「アメリカ市民」でした。

このように、「日系人」の定義は曖昧で、日系人には異なる世代の異なる国籍を持った人々が含まれています。しかし、第二次世界大戦期の北米の日系人政策は、世代や国籍に関係なく「日本人の血を引く人々」を対象にして実施されましたので、ここでいう「日系アメリカ人」には、日本国籍者である一世とアメリカ国籍の二世、三世らが含まれ、「日系カナダ人」には、日本国籍の一世、カナダに帰化した一世、およびカナダ生まれの二世・三世たちが含まれています。

1.太平洋岸からの強制移動

1941年12月7日(日本時間で8日)に真珠湾攻撃によりカナダが日本と戦闘状態に入りました。その翌日から、カナダ連邦警察(RCMP)が日系コミュニティのリーダーなど38名を逮捕しました。

カナダ海軍は日系人が所有していた1,200隻の漁船の押収を決め、数日内に太平洋岸に停泊していた漁船はすべて、プリンスルパート、ナナイモ、ニューウェストミンスターの漁船集積所に集められました。

日本語学校は閉鎖され、日本語新聞も発刊停止となりました。これらの措置により反日感情はいったん落ち着きますが、12月25日に香港が陥落して多数のカナダ兵が捕虜となると、反日感情は再び激化、1942年に入ると西海岸を中心に日系人の集団立ち退きを求める声が高まりました。

1942年1月14日、連邦政府はブリティッシュ・コロンビア(BC)州の太平洋岸100マイル地域を「防衛地域」に指定し、18歳から45歳までの日本国籍の男性にそこから立ち退くよう命令しました。彼らは家族から引き離され、ロッキー山脈の奥地の道路建設労働キャンプへと送られました。

2月15日にシンガポールが陥落し、2月19日に「大統領行政命令第9066号」によってアメリカ合衆国の日系人の強制移動が決定すると、カナダ政府も2月26日の内閣令で、防衛地域内に住む「日本に人種的起源をもつ人物」全員の退去を命じました。

3月4日にはBC州保安委員会(British Columbia Security Council: BCSC)が組織され、バンクーバー以外の地域に住む日系人が、バンクーバーのへースティングス・パーク元博覧会場に集められました。

彼らは一人当たりスーツケース2つ分の手荷物のみを許され、家や自動車、農地のほか、家具や着物などの思い出の品も、すべて残して去らなければなりませんでした。へースティングス・パークでは畜舎が急ごしらえの集積所へと転用され、馬の糞尿の臭いのしみ込んだ建物が、男性用と女性・子ども用の区域に分けられました。

各区域には、1メートルも間隔を空けずに簡易ベッドがずらりと並べられ、女性たちはプライバシーを保つため、ベッドの周囲にシーツをぶら下げました。トイレに仕切りはなく、旧鶏舎が食堂として利用されました。

そして、立ち退きを命じられた日系人の多くは、このように自分たちの家を離れ、最終的には「キャンプ」と呼ばれる収容所に送られたのです。

2.カナダ内陸部での強制収容

一方、バンクーバー在住者からも多くの日系人男性が道路建設キャンプへと移動させられ労働に従事させられました。強制転住にともなう家族の離散には強い抵抗の声が上がり、一世は「頑張り組」、二世は「二世集団移動グループ(Nisei Mass EvacuationGroup)」を結成して抗議しましたが、抵抗者は遠くオンタリオ州の捕虜収容所へと移送されました。

アメリカ合衆国では強制立ち退きへの集団的抗議は起こなかったのに対し、カナダで数百名の抵抗者が出たことは、一般にも研究者にもあまり知られていません。道路建設キャンプへ行った人々の多くは、同年秋までにBC州内陸部に移動していた家族に合流しました。

防衛地域外への移動先として、いくつかの異なるパターンが決められました。まずは、BC州内陸部に収容所が作られ、そこには約12,000名が入りました。アメリカ合衆国と異なり、砂漠に大規模なキャンプがいくつも新たに建設されたわけではなく、20世紀初めの炭鉱ブームで作られた炭鉱町が廃れてゴーストタウン化していたところが収容所とされました。

スローカンバレー(スローカンシティ、レモンクリーク、ポポフ、ベイファーム、ローズベリー、ニューデンバー)、サンドン、およびカスロなどはこのような収容所でした。また、100マイル防衛地域のすぐ東のホープという町の南東にタシメという収容所が、またアメリカ国境近くにグリーンウッドという収容所が作られました。

このようなBCSC直轄の収容所のほか、自活移動地と言われ、町の外への移動は制限されるものの比較的自由な生活を許された収容所が、グランドフォークス、イーストリルエット、ミント、ブリッジリバーなどに作られました。1,150名ほどの自活移動者は、家財道具一式を自動車に積んで移動できたため、他の収容所に行った人々よりは少し状況は恵まれていました。

この他に、防衛地域外であったオカナガンバレーやカナダ東部にいた親戚や友人を頼って自主移動できた人々も1,350名ほどいました。BC州以外の収容地としては、アルバータ州南部とマニトバ州の砂糖大根(ビーツ)農場に、それぞれ2,500名ならびに1,000名が移動しました。

また、先述のとおり、強制移動命令に従わなかった人々や道路建設キャンプで「反抗的」と見られた人々は、オンタリオ州のアングラーやペタワワといった捕虜収容所に移送されました。BC州内陸部の収容所では、タール紙を貼った粗末な木のバラックが住処とされたが、これらの建物は風を通しやすく、冬の過酷な寒さを乗り切るのは極めて困難でした。

スローカンバレーでは一部の日系人はテントで最初の冬を越さなければなりませんでした。アルバータ州やマニトバ州に移動した人々も、極寒の気候と水質の悪さ、広大な農地での砂糖大根作りは厳しく辛い生活でした。

アメリカ合衆国の収容所のような有刺鉄線はなく、銃剣を持った監視兵もいなかったが、BC州の収容所では、日系人の住む収容所地区は自由なエリアから川などを隔てて分かれており、日系人は収容所から許可なく出ることはできませんでした。

また、アルバータやマニトバで農場に配置された日系人は、レスブリッジやウィニペグなどの都市に住むことは許されませんでした。
東部の捕虜収容所に移送された人々は、逃亡した時には射撃の標的となる大きな赤い円が背中に描かれた囚人服を着せられていました。こうして、戦前に人口の95パーセントがBC州を中心とする太平洋岸に住んでいた日系人は、市民権の有無に関係なく住み慣れた家を追われ、カナダの敵国人として不自由な生活を強いられたのでした。

3.西海岸に残した財産の没収

西海岸には日系カナダ人の家屋、自動車、商店、農場、漁船、そしてスーツケースに入らなかったさまざまな財産が残されました。これらは一括して敵性外国人資産管理局(Custodian of Enemy Property)に管理が委託されました。ところが、開戦時に日系人の追放を強く主張したイアン・マッケンジー年金厚生大臣は、この信託財産を所有者の同意なしに売却する命令を出すことを提案し、1943年には財産の処分が始まりました。この政策は排日勢力にとって幾つかのメリットがありました。

一つは、財産を失うことにより日系カナダ人が戦後に西海岸に戻りにくくなること、二つ目は、土地や家屋を他のカナダ人、特に退役軍人に安く払い下げることで、彼らの生活や就業を助けられること、そして、財産の売却益から日系人の移動や収容にかかった費用を徴収することで、政府にかかるコストを抑えられることでした。

こうして、何十年もかけて苦労して築き上げた日系人の財産は、市場価格よりもはるかに安い値段で売却され、そのわずかな売却益から強制収容や移動費用を引かれた額の小切手が元の所有者に渡されました。すなわち、日系人は財産をカナダ連邦政府の手によってほぼ残らず没収され、なおかつ自分たちの強制移動・収容の費用を支払わされたことになります。

所有者の同意を得ない財産の売却に日系人は抗議し、訴訟も起こしましたが、戦時措置法下の政府の命令は絶対であり、どうすることもできませんでした。

4.ロッキーの東への分散政策と日系人の国外追放

1944年にはBC州の排日政治家は連邦政府に対し、日系人が戦後に太平洋岸に戻らないようさらなる圧力をかけました。これを受けてカナダ連邦政府は、「忠誠質問」を作成しました。アメリカ合衆国の日系人収容所でも質問は行なわれ、「アメリカ軍への従軍の意思」および「アメリカへの無条件の忠誠を宣誓し、日本の天皇への忠誠を放棄する意思」が問われました。

しかし、カナダの「忠誠質問」の内容はそれとは全く異なっていました。すなわちカナダ政府は、即時に政府の命令したロッキー山脈以東の場所へと移動するか、または戦中はBC州内にとどまり、戦後に日本への送還(二世にとっては国外追放)に応じるかの二者択一を迫りました。

BC州の収容所にいて、アルバータやマニトバ、カナダ東部へと移動できる者は移動に応じましたが、移動できない者や移動を望まない者約10,000人が、送還希望の書類に署名しました。分散政策は、日系人が固まって住んでいると人種差別を誘発するために、日系人をカナダ全土に分散することでコミュニティを消してしまおうとの意図で行われたものでした。

1945年8月に第二次世界大戦が終わると、カナダ連邦政府は送還希望者にカナダからの追放を命じました。戦争で荒廃した日本への移動を希望しない日系人の多くが、送還希望を撤回しましたが、政府は認めず、署名した人々全員を日本に追放しようとしました。しかし、すでに戦争は終わっており、カナダ生まれの二世も含め、カナダ市民を政府が国外追放できるのかについて、法的な疑問も出されました。

裁判の結果、連邦政府の権限は認められましたが、二世や帰化市民を含む日系カナダ人の強制的な国外追放には、世論から強い反対の声が上がりました。こうして政府も方針転換を余儀なくされ、1946年から47年にかけて、4,000名ほどの日本に行くことを希望した人々のみが、カナダを離れました。

送還の時点で日系人はカナダ市民権を剥奪されましたが、戦後にこの政策は変更され、1950年代前半に日本からカナダに戻れるようになると、多くの人はカナダに戻りました。戦争が終わってもBC州の人々の日系人に対する反感は強く、日系人の人権を回復するには時間がかかりました。1947年のカナダ市民権法や1948年の投票規定変更などの議論を経て、最終的に太平洋岸100マイル地域に日系人が立ち入りを許されたのは、戦後3年半以上経過した1949年4月1日でした。

西海岸の財産を失い、すでにロッキー山脈以東に移住していた日系人の多くはBC州には戻らず、新天地で一から生活を再建しなければなりませんでした。1942年から49年までの日系人に対する苛烈な人権侵害は、BC州で戦前から継続していたアジア系に対する人種偏見が背景にあり、戦争を口実とした不当な人権侵害であったと言わざるを得ません。

日本に出自をもつがゆえに戦争中に厳しい迫害を受けた日系人は、戦後の生活のなかで、日本語を話さず、日系人であることに負い目を感じながら目立たないように暮らしましたが、1970年代からカナダが多文化主義の国へと変わっていくなかで、一つのエスニック・マイノリティ集団として独自の文化を発展させていきました。

第二次世界大戦期に日系人に対して行なわれた政策は、のちに「人種差別」と「戦争を口実にした人権侵害」の歴史的な不正義として反省され、「リドレス(戦後補償)合意」によってカナダ連邦政府による公式謝罪が行なわれ、被害者には一人当たり21,000ドルの補償金が支払われました。でも、それは日系カナダ人への自由の制限がすべて撤廃されてから40年近くが経過した、1988年のことだったのです。

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