第二次世界大戦前のカナダでの日本人移民の約95%にあたる22,096 人は、バンクーバーを中心とするカナダ西岸のBC 州で暮らしていました。次に、1941年のカナダ・センサス(Census of CANADA)から、当時の日本人の就業構造について詳述し、彼・彼女らの活動を振り返ることにしましょう。
それでは、当時の日本人の就業構造について男性の就業数の上位10 種を概説すると、最多は1,506 人を数える漁業であり、それは日本人男性の全就業人口8,231 人の18.3%を占めます(第1表)。
ただし、カナダ政府による1920年代の漁業ライセンスの削減以前では、この実数と比率はより高次だったに違いありません。次が製材業の1,255 人(15.2 %)で、伐木業の737 人(9.0 %)が続きます。
上位3 位の就業者数は日本人男性すべての就業者数の40%強にあたり、まさに、これは伝承されている俗言のどおりの構造でした。第5 位になるパルプ製造業の465人(5.6 %)も製材業に類するならば、およそ2 人に1 人の日本人男性が、これらの業種に従事していたのです。
第4 位に果実栽培、第6 位にも野菜栽培という農業が現われます。これは、バンクーバー東郊のフレーザー・バレーで、日本人がイチゴ栽培を営んでいたからです。また、第7 位の食料雑貨以外にも菓子類(84 人)や肉・魚類販売(53人)など、食品販売業全体では355 人(4.3 %)の日本人が携わっていました。
第8 位の宿泊施設勤務、ならびに第10 位の調理・掃除・アイロン掛けと記載されるハウスワーク(家事手伝い)は、渡航当初の日本人が英語の修得も目的として就く業種でした。やはり昭和16(1941) 年においても、この種には一定数の従事者がみられます。
次に、女性の就業構造について説明しましょう。男性の場合と違い、危険をともなう重労働の漁業や、製材・抜木業への従事は希有です。ただし、日本人男性が従事していたサケ漁に関わって、サケ缶詰工場で働く女性は147 名を数えます。これは、日本人女性の全就業人口の9.1%を占めます。
しかし、先行研究で頻繁に紹介されてきた同種より多かったのは、268 人からなる個人サービス業です。16.6 %を占めるこの業種は、前述した男性のハウスワークと別項目であるものの、子守をはじめとする雑用であったと思われます。これに類するものとして、第5 位にホテル勤務64 人(4.0 %)があります。
なお、男性では食料販売しかみられなかった販売業に、女性では第6 位に同業36 人(2.2 %)と第9 位に服飾販売業30 人(1.9 %)も確認できます。
女性特有の業種として、第3 位の洋服仕立業133 人(8.3 %)と第7 位の理髪・理容業35 人(2.2%)が指摘されます。手先の器用さが求められるこれらの業種に就く日本人男性もみられますが、その数は多くありません。
昭和4(1929) 年の世界大恐慌により、カナダでは失業救済策から日本人の排斥は厳しくなり、それは漁業ライセンスの制限・削減に顕著に現われました。
密漁業によって拿捕された日本人漁業者のなかには、バンクーバー沖のボゥエン島に送られ、ダイナマイトを扱う鉱業に従事させられたものもいました。
漁業や製材業を追われた日本人は、芝刈りや落葉拾いなどの庭園業に就くものも少なくありませんでした。当初、この生業はサーモン・シーズン後の季節的な労働でした。
しかし、バンクーバーの発展にともなって住宅地が拡大すると、その需要は高まっていきました。そこで、やや後発の鳥取県西部出身者、特に現在の境港市域を中心とするガーディナー(庭園業者)は、フレーザー入江南岸のキツラノ・フェアビュー地区に集住し、その後背地に居住する白人を顧客にしたのです。
先述した俗言に倣うならば、これは「庭を掃くかな伯箒人」といえましょう。