はじめに

河原典史(立命館大学)

第二次世界大戦以前、多くの日本人が太平洋を渡りました。彼らはハワイ、アメリカ合衆国やブラジルなどへ渡航し、その当初、多くは農業移民として活動しました。それに対し、カナダへの移民は、農業よりも他の生業に関わることが特徴的でした。

最初にカナダへ移住した日本人は、長崎県南高来郡口之津(現・南島原市)出身の永野萬蔵とされています(第1表)。明治10(1877)年にイギリス船の水夫として渡加した彼は、カナダ西部のニュー・ウエストンミンスターでサケ漁業に従事し、やがて州都・ビクトリアで美術商、宿泊業や雑貨業を営みました。

明治21(1888)年には、和歌山県日高郡三尾村(現・美浜町)出身の工野儀兵衛がフレーザー川河口のスティーブストンに渡り、彼の呼び寄せにより和歌山県の沿岸部から多くの人びとが渡加しました。渡加者は日高郡を中心とする海岸部に多く、北部の紀ノ川流域や内陸部は少なかったのです。

ただし、新宮から串本にかけての南東部からも渡加し、造船業に携わったことは等閑視できません。彼らの多くは水上家屋を呈するサケ缶詰工場に従事し、漁業ライセンス(漁業権)を取得してサケ刺網漁業に関わりました。

ブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)北西部のナース・スキーナ川などの河口にも、多くの缶詰工場が建てられ、そこでも日本人はサケ漁業に就きました。

ハワイ、アメリカ合衆国やブラジルとは異なり、カナダへの移民の多くは血縁・地縁関係者による呼び寄せを中心とする自由移民でした。しかし、移民斡旋会社を介する契約移民も存在し、彼らは炭鉱や鉄道保線に就くことが多くありました。

明治24(1891)年に、神戸移民会社によって広島県、翌年には福岡県からバンクーバー島中央部のカンバーランド炭鉱へ契約移民が送られました。その後、横浜に本社を置いた東京移民合資会社はバンクーバーの日加用達会社と提携し、明治40(1907)年の6 月から翌年1 月にかけて約1,500 名の契約移民をカナダへ送り出した。

横浜港を発った彼らは、およそ1,000 名の鉄道保線工と500 名の炭鉱夫とに大別できます。カナダ到着後に日加用達会社を経て、鉄道保線工はカナダ太平洋鉄道(Canadian Pacific Railway、以下CPR)の沿線、炭鉱夫はバンクーバー島のカンバーランドヘ送られました。最も多いのは400 名を輩出した鹿児島県で、全体の約4 分の1 を占めます。

そして、266 名の熊本県と175 名の宮城県に次いで、福井県から154 名がカナダへ渡りました。ほぼ同数で沖縄県出身者がみられ、以下は福岡・静岡・岡山県と続き、そして神奈川県と栃木県となっています。

最多の輩出地である鹿児島県では炭鉱夫と鉄道保線工が半数ずつでありますが、熊本・宮城県でもそのほとんどは鉄道保線工でした。そして、4 位の福井県は154 名のすべてが鉄道保線工です。

つまり、当時のカナダでは保線にあたる鉄道保線工の需要が大きかったのです。鉄道保線工には冬季の雪崩事故に遭遇する危険があり、明治43(1910)年3 月4 日には、ロジャーズ峠で32名の日本人労働者が落命しました。

日本人移民が最も集住したのは、バンクーバー港南岸でした。明治18(1885)年に全通したCPR の終着駅が置かれた当地区には、陸海交流の結接点となりました。

ここでは海上にも貯木場が設けられ、製材所が連立しました。そのひとつであるヘイスティング製材所に雇用されたことを契機に日本人が集住するようになりました。やがて、同胞を顧客とする宿屋や商店が開業し、東西に通じるパウエル通、特に1 ~ 300 番地を中心に日本人街が形成されたのです。

 

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