3、出身地との関係

「近州ソーミル、熊本ヤマ、死ぬよりましかなヘレン獲り」。この俗言は、第二次世界大戦前のカナダにおける日本人の就業構造を的確に表わしています。つまり、滋賀県(近江国)出身者は製材所(sawmill)に勤めることが多く、そこへ運搬される木材を提供するために山奥で伐木業、または炭鉱を中心とする鉱業に従事するのは熊本県出身者が多くを占めました。

慣れない機械操作、倒木や落盤によって命を落とすかもしれないなら、ニシン漁(herring fishing)やサケ漁などの漁業に就くほうがよい、と揶揄したのは和歌山県出身たちでした。

とはいえ、春告魚と呼ばれるニシンの漁獲とその加工の繁忙期は初春であり、この生業も厳しかったことは間違いありません。

当時、最多のカナダ移民を輩出したのは、滋賀県です(第1図)。明治29(1896)年以降、愛知川水害によって滋賀県東部からも多くの人びとがバンクーバーに渡りました(第2図)。

中山訊四郎『加奈陀同胞発展大鑑 附録』(1923)によれば、当時のカナダ在留の滋賀県出身者は男性2,621人、女性1,077人で合計3,766名を数えました。ルミュー協定後における日本人の定住化が進んだため、日本人家族の形成が始まりましたが、男性がまだ7割を占めていました。

最も多かったのは犬上郡の2,421人で滋賀県全体の64.3%にもなりました。郡内で最大の輩出地は43番磯田村の467人で、県全体の12.4%にも及びました。1920年代におけるカナダの滋賀県出身者のうち8人に1人は磯田村から渡加したのです。また、隣接する愛知郡424人(11.3%)、坂田郡からは413人(11.0%)がカナダに在留していました。つまり湖東3郡の出身者が滋賀県カナダ在留者の9割弱を占めていたのです。

彼らは、最初に日本人を雇用したヘイスティング製材所をはじめとするバンクーバー港付近の製材所に勤め、やがて隣接するパウエル地区で同胞を顧客とする商業・サービス業への転出者が多くなりました。

第2 位は、前述したように、日高郡三尾村出身の工野儀兵衛を先駆者とした連鎖移住による和歌山県からの渡加者です。そのため、和歌山県中部沿岸が最多の輩出地となり、伝統的な船大工の多い南西部からの移民も少なくありません。

県内においても、北部の紀ノ川中流域からはアメリカ合衆国での農業、南部の古座川上流域から朝鮮への農業移民が輩出されています。漁業関係の移民であっても、南東部からアメリカ合衆国ロサンゼルス周辺へのツナ缶詰産業、南端部からのオーストラリア木曜島への潜水器漁業関係者など、輩出地域の差異がみられます。

それに続いて、広島県からのカナダ移民が多い理由は、先述した神戸移民会社による先駆的な契約移民と、その後の連鎖移住です。近世末期における広島藩と対馬藩との婚姻関係からの交流を契機とし、近代には朝鮮方面への移動が多くみられました。

さらに、広島湾沿岸の埋め立てによりハワイへの初期移民が輩出され、広島県からの渡航者は少なくなかったのです。ほぼ同数で、熊本県や鹿児島県からの移民が続きます。この要因は、前述した東京移民合資会社からの契約移民の渡航によるところが大きいです。

なお、西日本からのカナダ移民が多いなか、宮城県からのカナダ移民も少なくありません。これは、明治39(1906)年の及川甚三郎による密航船・水安丸事件に起因するからです。宮城県登米郡米川(現・登米市)で製糸業を営む及川甚三郎は、凶作に苦しむ地域の人びとを救済するため、カナダへの密航を企てました。

83 名を乗せて石巻萩浜港を出港した水安丸は、ビクトリアで収監されましたが、領事館書記・吉江三郎らの活動で入国が許可されました。先の明治29(1896) 年に渡加し、フレーザー川下流の中州にサケの漁獲と塩サケ・スジコの製造を行っていた及川は、密航者を受け入れました。

なお、翌1907 年に東京移民合資会社による宮城県からの契約移民が多く渡加しています。水安丸による渡航者が仙台で凱旋帰国し、新たな移民を募ったのです。

 

4、カナダ・センサスからの考察はこちら

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