2、初期の日本人移民
先に多くの日本人が渡航していたハワイでは、明治31(1898) 年にハワイ王国がアメリカ合衆国の準州へ併合されました。これを契機に、アメリカ本土へ転航する人が多くなりました。
ただし、アメリカ合衆国では、日本人に対する差別的な排斥が進んでいました。そこで、比較的入国が容易であったカナダへの転航者が増加しました。そのようななか、明治40(1907) 年9 月8 日、約6,000 人に及ぶ日本人の一斉上陸によってバンクーバーでは、反対する白人たちがパウエル地区を襲撃しました。
この事例を重くみた日本・カナダ両国は日本人移民を制限しました。翌年、カナダ労働大臣の名前をとったルミュー協定が制定されました。
この協定によって、原則として年間400 名の移民を上限し、日本からカナダへの渡航は、「呼び寄せ」という形態へ落ち着きました。そのとき、郷里に残してきた両親や妻子、特に独身男性では写真の交換によって婚約し、婚姻後に新妻が渡加する「写真婚」が多くなりました。
その結果、1910 年代後半になると日本人移民には家族の形成と定住化がみられるようになりました。出稼ぎ的な渡加であった日本人移民は、それまでのサケ缶詰産業や伐木・製材業や鉄道保線工などの肉体労働だけでなく、バンクーバーを中心とする都市において商業・サービス業へも展開するようになったのです。
二世の誕生によって、日本語と日本文化を学ばせる教育機関の設立が望まれました。明治39(1906) 年には、バンクーバーのアレキサンダー通に晩香坡共立国民学校(現在のバンクーバー日本語学校)が誕生しました。
この設立には、前年における日露戦争の講和条約・ポーツマス会議後、帰国の途にバンクーバーに立ち寄った外務大臣・小村寿太郎による150 ドルの寄付が基金となっています。この後、各地の日本人集住地には、日本語学校の創設がみられるようになりました。
大正3(1914) 年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦にも、カナダ日本人移民は密接に関わっています。明治35(1902) 年に日英同盟を結んだ日本は、その保護国であったカナダとは同盟国でした。
そこで、日本人の地位向上を目指し、カナダ軍に参加する日本人義勇兵が組織されました。その結果、196名がヨーロッパ戦線で戦い、54名の戦死者を出しました。バンクーバーにあるスタンレー公園には、彼らの慰霊碑が建立されています。